takeshiの街道を歩く カメラのイラスト

 ぶらり歩き   
 30. 伊豆半島を歩く (8)   平成24年4月21日
 つり橋を渡り、河津川の右岸の細い道が踊子道で、土ではなく、舗装されている。だらだらと登り、河津川からは離れていくが、路傍には明治時代に作られた石仏(写真28)が祀られている。また、下田街道小鍋峠と書かれた道標(写真29)が整備され、安心感を与える。
 
 春の陽差しが強く照り付けているが、両側の樹木が適当な日除けとなり、快適な歩行を楽しむ。右側の小高い位置に小鍋神社の白い明神鳥居と赤い屋根の拝殿が建っている。この神社は文覚(もんがく)上人(1139年〜1203年)が源義朝(源頼朝の父)の髑髏(どくろ)を境内に埋葬したといわれている。また、小鍋という地名は、頼朝が父の霊を弔うために当地を訪れたときに、調理用の鍋を所望したところ、小さい鍋を提供した地域を小鍋、大鍋を用意した地域を大鍋と名づけたことに由来しているという。

 小鍋神社を過ぎてしばらく歩くと、自動車も通れる道に出る。この道を行くと、県道414号にぶつかり、川端康成が若い頃から逗留した福田家を訪ねることができる。県道に向かうか、このまま旧下田街道を行くかKさんと迷っていると、たまたま自動車で通りかがった女性が、旧下田街道はあまり人が通らないため荒れているかもしれないが、整備された道と知らせてくれる。それに力を得て、旧下田街道を歩くことに決める。

 旧下田街道の道(写真30)はハイキングコースのように整備されているが、時期的に訪れる人が少ないせいか、枯れ木や枯葉で覆われたところもあり、歩きにくい。小鍋峠までは登りが続き、しかも足許が荒れているため、小鍋峠に着いたときにはふたりともかなり疲れてしまう。この道を、幕末にロシア使節のプチャーチンと交渉をもった幕臣川路聖謨(かわじとしあきら)(1801年〜1868年)が往来したというが、彼の地位から考えると馬を使ったと思われるが、道幅が狭く、果たして乗馬しての移動はできたのであろうか。

 小鍋峠からは下りとなり、余裕をもって歩く。途中から所々に民家も目にすることができ、道も自動車が通れる舗装道となる。県道414号に出る手前の道端に、江戸時代のものと思われる道標(写真31)が立っている。文字は読み取りにくいが、左三しまと読み取れる。
 
 県道141号に出て、昼食のレストランを探しながら県道を歩く。県道沿いにそば屋を見つけ、腹を満たすとともに体を休める。

 昼食を終えて、すぐに県道を離れて稲梓川(いなすさがわ)に沿った道を歩く。上原仏教美術館を過ぎて箕作に出て、再び県道を歩く。左手に伊豆急行線が近づき、県道を逸れて伊豆急行の踏み切りを渡ったところにある小さい神社の前で休憩をとる。再び踏切を渡り、蓮台寺駅を過ぎると道は街中を通り、車の往来も頻繁になる。

 下田市内に入ると、土地は平坦で小高い丘がいくつもあるが、東海地震の発生で想定される20mを超える津波に襲われた場合、丘は急峻で老人などはとても短時間で登ることは難しく、津波避難場所の確保がどうなっているのか心配になる。

 下田駅に着くと、すでにSさんは到着しており我々を迎えてくれる。電車の時間までKさんと小生は駅前の居酒屋で下田の刺身を肴に打ち上げの乾杯。
 今回はSさんが膝の具合が悪いためウォーキングに参加できず残念であったが、Kさんとのふたりで三島から下田まで伊豆半島を縦断することができた。伊豆は意外に水が豊富な土地であること、江戸時代の旧下田街道は幹線街道ではないが古道が残っていること、そしてそれが幕末の外国との交渉の舞台となることにつながり、文豪川端康成の伊豆の踊子の舞台を提供する素地であることを肌で感じることが出来た。

  
    
 

写真28 踊子道の石仏群

写真29 踊子道の道標

写真30 旧下田街道

写真31  旧下田街道の道標

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